かわいいの集合体が生み出す多世代の居場所

毎日がアウトドア
冨永貴子です。生まれは、千葉県の南房総市です。合併前は富山町。千葉県の南端の、冬でもお花が咲くような。三人姉妹の、わたしが長女。うちは農業、酪農、林業、全部やってたので、家族で出かけたことがない。
子どものときって、楽しいことがあんまり記憶になくて。お弁当作ったり、ご飯の支度したりして、ずっと働いてたから。将来はサラリーマンの人と結婚するっていうのが夢だった。そのくらいね、子ども時代はずっと外で、毎日アウトドアみたいな感じだった。だから、自給自足とかスローライフとか言うけど、わたしは逆がいい。

銀行員から栄養士の道へ
高校を出たあとは、したいことが全然なくて。女子は進学しなくてもいいみたいな時代だったけど、東京の短大には行かせてもらって。そのあとも何になりたいかがなくて、銀行員になれば安定してていいのかなって、銀行員になったんです。
銀行員は5年間やった。このままでいいのかなって思ったときに、栄養の勉強をしてみようかなって。仕事にならなくても、自分とか周りの人の役に立つかなって思って。思い切って退職して、栄養の専門学校に入ったんですよ。専門学校に2年間通って。そのあと2年間栄養士として働いて、翌年に試験を受けて資格を取った。
病気と付き合いながら続けた仕事と子育て
30になって、自分の人生を考えたとき、子育てしたいんだったら先そっちだよねって。試験受かった年に長女を妊娠して、子育てが始まるんです。妊娠してるときに、体に異変を感じて。関節リューマチになっちゃってたんですよ。手首と足の指が特に痛い。栄養士って、大量調理とか、重たいもの、固いものをずっと切るとか、寒い環境にもいないといけない。そういうのがダメだって分かって。その中でやれるのは喋る仕事だなと思って、個人事業主みたいな感じで特定保健指導の栄養指導をやってきたんですよ。
リューマチになってなければ、管理栄養士としての働き方も違ったかもしれないけど、負担をかけないでやれる働き方というか生き方をやってる感じなんです。なってもう20年かな。完治はしないんで、上手に付き合うかどうかっていう。
震災を機に長岡へ
その頃、福島の浜通りに住んでたんです。わたしは、年に何回か泊まりで仕事に行くときがあったんですよ。帰ってくると、家に引きこもってひたすら報告書を書く。その日に東日本大震災だったんです。1日前だったら会津の方にいて、多分戻ってこれなかった。主人の会社も、工場なんですけど、火事ですごくて。わたしがたまたま家にいた日に起こったから、子どもたちを保育園と小学校に迎えに行けたっていう。家は津波の被害はなかったんですけど、原発のすぐ近くだったから、強制避難。
その夏、避難者向けに無償住宅提供制度ができて、長岡でも3ヵ所くらいあって。主人は刈羽村の工場を間借りして、福島の製品を作り続けたんです。主人が、刈羽村の工場にも通えるからそうしようかって、わたしたちは長岡に。それがきっかけなんです。
避難者のアイデアから生まれたつるしびなの会
栄養指導の派遣はぽちぽちやってたんですけど、長岡市に5、6000人ぐらい避難者が来たんです。そのときに東日本大震災のバックアップセンターができて、ボランティアさんが訪問してくれたんですよね。2回目に来てくれたときに、冨永さんさ、もしよかったら一緒に活動してくれない、って。そこで活動するようになって、避難してきたシニアの人って居場所がなくてすごい孤立するから、集まる場所みたいなのを作ろうみたいになった。そのときに、お茶飲みだけって苦しいなって思ったんですよ。あるおばあちゃんが、つるし雛ってできないのかね、って話をして。わたしはやってなかったんですけど、見たことあったんですよ。本を買ってきて材料も揃えて作ってみたら、きれいにはできないけど、なんかいいんじゃない、みたいな感じで。それで、同じ団地に避難してきたおばあちゃんたち3、4人で始めたんですよ。それが長岡つるしびなの会のきっかけ。あの世代の女性って、何かしら手しごとしてるんですよね、当たり前のように。今思えば、何でもよかったんですよ、編み物でも絵手紙でも。それが、たまたまつるし雛だった。そんなんだと思うんです。
展示するようになったきっかけはなんだろう。ただ作って終わりって面白くないな、人に見てもらうって嬉しいのかなって思って。今は普通にやってますけど、最初からそんな話はなくて。わたしたちが活動してるのを聞いて、長岡の駅前で毎年やっているイベントの担当の人が来てくれて、一所懸命サポートしてくださったんですよ。それが初めてかな。それからお雛様の時期になると、長岡駅前の公共施設で飾ったり、公園の古民家でも何年も。

越後丘陵公園での展示の様子
さんビズとの出会い
その頃は、このままのやり方でいいのかなって。つるしびなの会では、単発のワークショップはやってたんですけど、好きな人に継続して参加してもらえる仕組みづくりとかできないかなって話をして。その仕組みづくりをどうしたらいいかって、すっごいモヤモヤしてたんです。自分が順調なとき、このさんビズのチラシがあったとして、目に入ってなかった。でも、ちょっと行ってみようかなって思ったってことは、きっかけがほしかったんだろうな。今、自分が必要なんだなと思って受講させてもらったっていう。
講座でよかったのは、自分を掘り下げたのと、プランを考えていったこと。自分だけでやると、頭の中でモヤモヤ回ってるだけだけど、書き起こして、ふせんもいっぱい使いましたよね。ほんとに自分がやりたいことが何かを気づくきっかけっていうか。チクチクを通して何がやりたいのか。展示会か、販売か、ワークショップか、ただ作りたいのかって。展示会とか販売会とかも、知ってもらう機会になるから必要だと思いますけど、わたしがしたいのはワークショップなんだなって気づいて、よしやるぞ、みたいな。

第6期を受講中の冨永さん
多世代交流の場としてのサンタの会
プランは立ててたんです。6回コースだったら、材料費いくらで参加費をどういう風にもらって、って。じゃあ実際どういう風にどこでやるとかは決まってなかった。まだやる勇気がなかったっていうか。そのとき飲み会があって、自己紹介のときにこういうのやってますって。若い子たちが、わたしも作ってみたいって言って、最初5、6人ぐらいで始めたんです。それがサンタの会。ルールはすごく大事だなと思って、もう決めてた。必ず1回体験に来てもらって、条件を話して、それでもよければって。人数は20名以上増やさないとか。
最年少は、高校生。最初入ったとき小学校6年生だったの。上が84歳。30代の子育てママも来てくれてて。落ち着いてるのは、60、70代の人たち。そういう人たちが長くて、若い子たちの出入りがあって。月2回で3ヵ月、6回あるからゆっくりやっても休んでも終わるようにしてるんです。おしゃべりしたりとか、やり直したいなってなったらやり直せるぐらいの余裕を持って。

出欠は、1週間前にわたしが取るんですよ。いつも送ってくれる人から連絡が来ないと、何かあったのかな、当日来るって言ったのに来なくて、夏だと熱中症で倒れてないかなとか。80代の人が携帯に変な電話がいっぱい入ってヤダっていうとき、若い子たちが設定をしてあげるとか。ママさんは子ども連れてくるんですけど、みんなで成長を見守って交互にだっこしたり。そういう感じで、お互いの癒し、多世代交流にもなってる。シニアの人には、居場所や見守りになってるんだろうな。そこはね、すごくいいなと思って。

つるし雛は思いの集合体
つるし雛の魅力は、針と糸、材料を揃えてあればどこでもみんなでできるっていう。大きい作品を作るのは大変だけど、一個一個って達成感が早いんですよ。数時間でできる。小さい達成感のいっぱいの集合体があの大きい作品になるっていうのがね、続けたくなるんだと思う。今は偉そうに教えてますけど、最初はつるしびなの会の上手な人たちに教えてもらった。10数年前は何もできなかったから、ほんとに感謝ですよね。一から教えてもらったなと思いますよね。

今度は、サークルじゃなくて一個人としてやろうかなと思って。単発のワークショップも自分ができる範囲で。14年ぐらいやってくるとね、目的が変わってくるから。でも、変わっていかないといけないんですよね、ずっと一緒ってのもね。わたしの軸は、みんなで楽しく作って、できたものを、わぁ、かわいいっていう風に。それだけなんですよ。その場を増やしていきたいっていうか。難易度がいろいろありますけど、できたものがみんなかわいいから。
さんビズを受けて、思ったことはとりあえず始めて見た方がいいって思ってて。ただ自分の中で考えてても、空回りしちゃったり進めないから、やっぱりこういうところに参加して、仲間の意見を聞いたりするとより具体的になるし、わたしだけじゃないんだって背中を押されるとか、すぐじゃなくてもあのときそうだったっていうきっかけにはなると思う。さっきも言いましたけど、こういうのが目に留まったときって、やっぱり必要だからだと思う。そのときは迷わず参加してほしいな。絶対プラスになると思うんです。ほんと、直感ってすごい大事だなって。

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